· 

#00116 子供たちから学んだ

こんにちは、あおけんです。

 

マルシェに出店していたときに

ふと気付かされたことがありました。

 

たくさんの子供たちが楽しそうに

走り回って遊んでいたのです。

 

一見、普通の何でもない光景なのですが、

そこには大切なものがあるように思えました。

 

言ってみれば、大人が削がれてきた、、

もしくは、失ってしまったものだと思います。

 

おそらく、大人で、それを今もなお

持っている人は少数派なんじゃないかと。

 

元々、すべての子供がもっているとは

断言できませんが、少なくとも、それを

もっているのは多数派のように見えます。

 

それが何かと、言語化するなれば、、

 

・モチベーション(主体性)

・空気を読まない力(意見を言う)

・生み出す力(編集力)

 

こんなところです。これらは遊びの中で培い、

「〇〇するな」とか「それは間違っている」

「ダメだ」「ルールだから」といった言葉や

空気によって削がれているように思います。

 

少し詳しく言えば、子供たちを観察すると

 

・知らない子でも遊び(仲間)に誘います

・好き勝手にやりたいことを言い合います

・能力を考慮したルールを柔軟に決めます

 

これって実は凄いことだなと社会人を経験

すると気づくわけです。

 

なぜなら、大人たちはこれを上手くできません。

いや、できる人は所謂仕事がデキる人です。

 

仕事に巻き込むときも、ご飯のお誘いも、

「断られたら嫌だな」とか

「あの人とあの人の相性良かったっけ?」とか

余計なことを考えすぎたりします。

 

会議や雑談においても、

「これは言わない方が無難だな」とか

「自分の意見なんて価値がない」とか

自信の無さの現れか、対立を避けたりします。

 

で、ルールや何かを決めるときも、

その時の最適解ではなくて、過去に習って

よく考えずにそのまま適用したりします。

〇〇がないからムリって、決めつけるし。。

 

もう、あるあるネタ過ぎて残念に思えます。

 

結論を言えば、

 

「よく遊ばせ、否定よりも、問いを与える」

 

これが、子供の教育にとっての一つの

やり方であるように思います。

 

もちろん、バランスが大切で、

社会のルールや空気に適応していく

ことも必要ですが、自分で考えて、

間違っても良いから意見を言える人間である

ことは人生にとって重要なことだと思います。

 

現在、既に大人で、子供のとき持っていた

大切なものを削がれてきた人は、

悲観する必要もなく、ちょっとだけ意識して

「自分の意見はこうだ」って色んなものに

対して、立場を明確にしたら良いと思います。

 

特に答えなき問いに向き合えば、

多様な意見に耳を傾けるようになるし、

その時々で、自分のポジションも変わると

思います。

 

政治、教育、社会システム、、

挙げればキリがありませんが、

他人ごとにして、思考停止になれば、

「他の方々にお任せしますよ」

ということでもあります。

 

それでは、もし何か自分にとって不都合な

ことになっても文句を言う資格はありません。

 

政治に文句を言える人は、投票した人だけ。

代案なき反対なんて却下されても仕方ないです。

 

ちょっと長くなり、脱線もしてきました(笑)

 

今回は、子供の良いところが大人になると

失ってしまうというお話でした。

 

最後にもう一度、まとめて提言とするなれば、

 

自分自身も、大切な誰か(子供とか)も

 

「良き問いを立て、よく考えて、

まずは自分の立場を表現してみる」

 

これを繰り返すことで、大切なものが

自分の中に宿り続けるのではないかと思います。

 

ある意味、このブログも、今この瞬間の

自分の考えを明確に記していることによって、

それが間違っていようが、思考のきっかけに

なると同時に、「そんなの違うよ」って

意見を恐れずに、伝える力を磨いている

ことでもあると思うのです。

 

今日も最幸の1日に!!